『サバルタンは語ることができるか』

数年前に発達障害の診断を受けたわけですが、それ以降、
障害者論にも目を向けるようになりました。

しかし、結構疑問もわいてきて、例えば「障害者=弱者とも限らない?」とか。

それでサバルタン論と言うものを一応抑えておこうと思い、
G・C・スピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』を読んでみました。

薄い本ですが自分には中々難しくて、理解できない部分が多くありました。
しかし、それなりに自分が大学の講演会を聴きに行ったりしたことで起きた
疑問と合致する箇所もありました。
そこで初めて、というより、以前からカルチュラルスタディーズ系の言説に触れて
感じてたことが、ここにもあるなという感じなんですけどね。

特に前半部分の、フーコードゥルーズに対する批判についてです。

ところが、二人とも、イデオロギーの問題およびかれら自身が知的ならびに経済的な
生産活動の歴史のなかに巻き込まれているということにまつわる問題については、
これを一貫して無視している。

「現実とは、工場、学校、兵営、監獄、警察署で実際に起こってることにほかなりません」
対抗ヘゲモニー的なイデオロギー的生産という困難な仕事を遂行する必要を
このようにしてあらかじめ閉ざしてしまったことは、
けっして好ましいことではなかった。
それは先進資本主義諸国のネオコロニアリズムの正当化の基礎をなしている
実証主義的経験主義がみずからの闘争の場を
「具体的経験」や「実際に起こっていること」に定位するのに手を貸してきた。
実のところ、囚人、兵士、生徒たちの政治的アピールの保証人である
具体的経験が明るみに出されるのは、
あくまでもエピステーメーの診断者たる知識人の具体的経験をつうじてなのだ。
どうやらドゥルーズフーコーも、社会化された資本の内部にいる知識人は
具体的経験を振り回すことによって労働の国際的分業の強化に手を貸すことに
なっていることに気づいていないようである。

明らかに呈示されているのはなんのことはない、
左翼知識人達の挙げる、自分を知っており政治的狡知にたけた
サバルタンのリストだけである。
そして、かれらを表象しながら、知識人たちはみずからを透明な存在として
表象しているのである。

スピヴァクリーダー』の編集者たちの序論には、
サバルタンは語ることができない」という主張についての
インタビューのなかでのスピヴァクの説明を要約して、つぎのようにある。
(中略)
もしサバルタンが彼女自身の声を聴いてもらえている場合には(中略)、
そのときには彼女のサバルタンとしての地位は完全に変わってしまっていることであろう。
彼女はもはやサバルタンではなくなってしまう。


私は上山和樹さんのブログFreezing Pointをチェックしているのですが、
そこでの主張と共通性を感じます。


この本は1988年に出版され、日本語版は1998年に出されたのですが、
メインストリームの議論の状況は、進展していないと言うことなのでしょうか?


こういう問題を棚上げしてきたから、
歪な形で色々なバッシングが吹き上がってきているのでしょう。
大久保の嫌韓デモや乙武さんのレストランの件です。
「弱者」として認定されづらい人/されていない人が認定された「弱者」に
恨みっぽくなっているのかなと。
一度、「弱者」性及び「当事者」性については交通整理が必要だと思います。
佐々木俊尚さんの『「当事者」の時代』はとても参考になります。

また、ゲンロンカフェでの東浩紀さんと安田浩一さんの対談では、
東さんがそもそもの弱者性を問う場面がありました。
安田浩一×東浩紀 「ネット×愛国×未来 ---在特会から見る現在の日本」 - 2013/05/22 19:00開始 - ニコニコ生放送

自身の弱者性を論じる当事者系の言論人について、
「彼らはただのリベラル知識人だ」と言っていたのが、印象的でした。

もっとも、発言権を得たからといって、
例えば障害者であれば、障害の困難さ自体が無くなるわけではありません。
そのことはきちんと踏まえておくべきです。