アーユルヴェーダで鼻炎治療2

前回のエントリーで書いた主体の問題なんですが、
こちらが言う「主体はない」というのは、アプリオリ
主体はないということです。
なのでラカン等の構造主義者が主張するような意味での、
社会によって去勢されて形成された主体は認めます。

しかし、私が意思決定は社会環境によるということを、
治療者は認めなかったので、その人の言う主体というのは、
アプリオリな主体ということになるのだろう。

私は現代思想系の発想によってアプリオリな主体への懐疑を
身につけたのですが、人文学でなくとも自然科学の分野でも
普通に言われてることなのではないかと思う。

最近読んだ池谷裕二の『脳には妙な癖がある』においても
「意思は脳から生まれるものではありません。
周囲の環境と身体の状況で決まります」と書かれている。

あのときのやり取りで、こちらが色々と論拠を出しても
目的ありきで論拠を探しているという指摘を受けたが、
世の中の大半の理論構築はそういうものだし、
彼の私への指摘もまた彼自身の言ってることに当てはまる。

彼が私に言うことは、自分自身には当てはまらないと、暗に思っているようだった。
「意識はその人の中にあるものでしかない」という彼の主張を受けて、
彼の言うことに対して「それも先生の意識では、ということですよね。
結局相対化できちゃうんですよね。」と聞いたら嫌そうな顔をしていた。

どうも患者が自分の考えに疑問を抱くという発想がそもそもないらしく、
私からするとそういうスタンスは殆どカルトと変わらない。

あまりにも彼の主張に私が素直に従わないので
「このままでいいなら、いいんじゃないですか」と、
脅しのようなことを言ってきたが、
鼻炎の問題をどうにかするということと、
この人の言ってる自己啓発セミナー的介入を受け入れることは
別問題なのだ。